Kanazawa Jazz Days

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細谷雄一:安保論争 (2016、ちくま新書) 平和が永続するために

 大きな国民的コンセンサスは、間違いなく、戦前の過ちを繰り返さず、平和が永続すること、である。1951年のサンフランシスコ平和条約以来、日米安全保障条約のもとでの軽武装専守防衛の吉田ドクトリンによる体制のなかにある。そして平和のなかにあった。

 この平和が永続するために、何を考えるべきか?

 我々は、現代が冷戦終結後の、分散した、かつ厳しいpower politicsのなかにあり、軍事的なパワー・バランスの変化が「平和に対する脅威」であることを感じている。またPax Americanaが終焉に向かっており、新しい「あるべき」スキームが見えない不安のもとにある。

  過去そうであったように「自衛隊日米安保体制の維持」が国民意識の大勢であろう。ボクはこれが正解とは考えてもいないが、これ以外の代案もない。だからこそ、多くの人々の間で、民主党政権当初の東アジア共同体構想による日米安保への重依存からの脱却に少なからず関心・支持があったのだと思う。しかし、その米依存からの脱却のヴェクトルが中国による尖閣海域への侵犯を喚起し、さらなる厳しい反日デモがそんな夢想を醒まし、一気に「東アジア共同体への期待」が潰えた、ということだ。

 結果的に退潮の米国との同盟維持の手段として、集団安全保障が提起された訳である。本来、その是非・問題点について国民的議論が喚起され、21世紀の日本の国家像について議論が深まるべきであった。しかしながら、集団安全保障関連法案を「戦争法」と呼んだ時点で、議論を深める機会は失われ、結果的に法案チェック機能を公明党のみに委ねるような愚を犯した、と思う。集団安全保障=戦争指向のような決めつけで、対話の回路を閉ざしている、のである。それは現自民首脳が「反サンフランシスコ体制の心情」(昔は赤尾敏の専売特許だったのだけど)を持っており危ない、という意識とはまた別の問題である、と思う。

 現在の日本国の安全保障体制は、第二次世界大戦以前の国家の在り方からすると主権が制限されており、半独立・従属国という見方があるが、ある意味そうであろう。それ故に1960年安保闘争は、その意味での反米ナショナリズムの発露としての側面が強い、とも思える。その反安保陣営から新左翼をはじめとする「左翼陣営」が揺籃されており、先の反集団安保反対運動を支える党派勢力となっているのは、当然であろう。ならば、先の反集団安保反対運動を進めた党派が目指したものは何だった、のだろうか。非武装中立なのだろうか、あるいは戦前のような孤立した軍事力なのか。それが現スキーム(自衛隊日米安保体制)の維持ならば、大いなる欺瞞ではなかろうか。

 日本国憲法前文の精神は美しい。だからこそ国際協調のなかで、それを実現する具体的な議論が深まることを願ってやまない。本書は、そのような安保論争が抱える問題点を整理した書であり、一読をすすめる。  

安保論争 (ちくま新書)

安保論争 (ちくま新書)

 

  付け足し。

 我々は軽武装専守防衛の吉田ドクトリンによる体制のなかにあるのだが、これは吉田が骨組みを作り、岸が肉付けした、日本国憲法で想定されていない安全保障体制のもと、ともいえる。数々の自衛隊違憲訴訟も、そのためであった、と思う。素人的には井上達夫の議論(そもそも自衛隊違憲改憲が必要。流動的な国家関係を鑑み、憲法では詳細まで縛らず、法規で規定すべき)がとても分かりやすい。