Kanazawa Jazz Days

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ジャズを中心としたレコード/CD、登山/渓流釣り/ランニング、金沢の日々の暮らし

(ECM1005) Derek Bailey: The Music Improvisation Company (1970) 冷たい戦争の時代のマクロな絶望感

 少し時代を考えてみた。冷たい戦争の時代のマクロな絶望感、のなかにあったのだと思う1970年。米ソの分かりやすいイデオロギー対峙のもと、ボタンを複数回押すだけで世界が灰燼に帰す構造のなかに置かれ(これは今でも変わっていない)、パリ協定前のヴェトナムには第二次世界大戦以上の弾薬が無辜の民の上に降り注ぐ。そんな冷たい戦争の時代、大きな時代状況に対し学生や労働者が意義申し立てを行う。ベイリーの音を聴いていると、一見、調性のもとで生きている「と思っている」我々の世界が、調性を失った構造のうえに脆く成り立っていることを思い知らせる、ような気がする。雑音と音楽の境界よりは雑音に近い音。だけど、無音と音の間では、勿論、音の側にあって、その音を鳴らす「意志」に偶発性以上の意味を与えられるか、それを問うている。

 そんな音楽を、戦争が分散化し(まさにインターネットと同じ設計思想だ)、ミクロな絶望感のなかにある我々はどのように感じて、聴けば、いいのか。そんなことを考えながら聴いていた。答えはない。私たちの日本も、きっと当時よりは分断化されている。分散化された分断。つなぎ合わせることはできるのだろうか。1970年という、イデオロギーに対する作用とと反作用という、明瞭な軸で「実は分断化されていなかった時代」、つまり一次元的レイアウトのなかにあった時代が懐かしい、ように思う。分断化された時代は無限の次元の座標軸のなかで、自己の定義すら難しい。だから本来的な意味のアナキズムが似つかわしい時代に、残念ながらなってしまった。

 この音から想起される考えはそんなもので、音楽でない音、されど作られた音世界の意味は確かに伝えてくるような、そんな不思議な時間体験なのである。1970年のロンドン。現代音楽などで感じさせられる、調性から離れた美、のようなものはカケラもない。電気、の活用が怜悧に行われている。またECM的な録音、でもない。あまり良くない。

 アイヒャーが扱った音のなかで最大振幅で破壊側に行った記録、なのである。いやカンパニーの取り組み、自体が極北の音なのだと思う。そのなかでエヴァン・パーカーの音がジャズのしっぽを残していて、打楽器と反応しあっているのが面白かった、と申し添える。

 ちなみにディスクユニオンでこれはン万円で、手が出なかった。海外サイトでは、普通価格で相応の数が出ていることを申し添える。また、これがCDで日本でのみ販売されていた。恐れ入った。

youtu.be

参考記事:

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[ECM1005] Derek Bailey: The – The Music Improvisation Company (1970)
A1: Third Stream Boogaloo
A2: Dragon Path
A3: Packaged Eel
B1 . Untitled No. I
B2 . Untitled No. II
B3. Tuck
B4. Wolfgang Van Gangbang
Derek Bailey(g), Evan Parker(ss), Jamie Muir(perc), Hugh Davies(electronics), Christine Jeffrey(voice)

Design: B & B Wojirsch
Photography: Werner Bethsold
Engineer: Jenny Thor
Producer: Manfred Eicher
Recorded on August 25th, 26th, 27th, 1970 at the Merstham Studios, London